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徒然閑写

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あの日から61年目の夏が来ました

<広島原爆忌>平和記念式典に4万5000人が参列

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 上の写真は61年前に広島に重量4tのウラニウム爆弾(13キロt相当)リトルボーイを投下した原爆投下用専用改造B29爆撃機エノラ・ゲイ(因にエノラのゲイ(ホモ)では無く、機長の母親の名前)の写真です。
 現在はレストアされてダレス博物館に”誇らしい”歴史的展示品として公開されている。95年頃にスミソニアン航空宇宙博物館で原爆被害や歴史的背景も含めて展示の計画も有ったが、残念ながら退役軍人団体からの圧力で原爆被害や歴史的背景の展示説明が抹消された。
 アメリカ人にとっては「アメリカ人を救った、平和をもたらした象徴」だが、日本人に取っては「不意打ちの無差別多量破壊・多量無差別殺人兵器の象徴」だ。

 61年経っても「人類の反省」は進まず、日本人の「原爆」は風化が進み、米国民の一般的な「原爆」への認識は一向に進歩が無いままだ。
 この多量の尊い犠牲が何の警鐘にも成らず、世界のミサイル兵器・核兵器の開発・保有はますます拡大の一途だ。

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 上の爆弾は日本に投下された原爆と同形のものです。左が広島のリトルボーイ、右が長崎のファットマン(重量4.5tのプルトニウム爆弾(22キロt相当))。同様の原爆は10発前後は製造されていたと思われます。エノラゲイタイプのB29も15機用意されていたそうです。

 原爆攻撃目標は当初広島・小倉・新潟でした。その後の論争の後、第4の目標として京都に代わり長崎が追加。トルーマン大統領の命令により、広島・小倉・新潟・長崎の4都市への原爆投下命令が発せられた。
 が、何故か計画実施直前に新潟攻撃は「遠過ぎる」理由(原爆攻撃のB29の基地はグアム島)により中止、第一攻撃目標の広島攻撃終了後の小倉攻撃は「有視界不良」の為、急遽長崎に目標変更された。

 人類最初の核爆弾実戦使用は広島に実行された。高度9600メートルから投下され原爆ド―ム上空580メートルでそれは炸裂し、一瞬で全市を破壊・炎上し尽くし、約21万人(投下からその年の終わり迄に死亡累計)の市民を正に容赦の全く無い「無警告」「無差別」の多量無差別殺戮がしかも一瞬に行われました。

 一方、長崎は別のB29「ボックスカー」が高度10000メートルから三菱重工軍需工場付近の競技場の上空500メートルで炸裂し、超巨大な火炎球が轟音を響かせ猛烈な速度で全市を破壊・炎上させ、約10万人(投下からその年の終わり迄に死亡累計)の市民を広島同様に多量無差別殺戮しました(連合軍の捕虜や中国人・朝鮮人の受刑者も同時に即死したそうです)。

『何キロも続く、煙くすぶる焼け野原。風船のようにパンパンに膨れ上がって溜め池に浮き沈みしている裸同然の何十という死体。石垣に叩き付けられた家とともに焼かれた、立ったままの子供の焼死体。何十、何百と並べられて、引き取り手を待っている女や子供たちの死体。重傷を負いながら手当ても受けれず蛆虫の餌食にじっと耐えている無残な人々。』これは当時13歳だった、田中熙巳さんの記憶です。
 当時は今と同じ真夏です。傷の膿には容赦無く蝿がたかり卵を産みつけに来ます。手当されない人の傷口(光線を受けた皮膚はすべてはがれている)には多量の蛆が湧いてうごめいています。それどころか幾ら喉が渇いても水も飲ませて貰えないまま。どんどん死んで行きます。

 しかも原爆の恐ろしさは「その後」もずっと後遺症という形でその被害が「気がつかれ難い形」で継続され、その後に少なくとも10万人近い「遅れた原爆死者」が発生しています。これも含めれば、広島だけで30万人以上がたった一発の爆弾の為に死亡してます。 更に「長崎」も有る。

 
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 上の写真は広島市中心より北側(西区)に有る三滝寺の無縁仏の墓石群です。 このお寺の近くに軍の病院が有った為に当時多くの人が中心部からこの寺に逃げ込んで来たそうです。しかし、当然と言うか、治療も受けられず多くの人達が絶命しました。殆どが身元不明。寺の僧侶と近所の人がご遺体を無縁仏として埋葬しました。
 当時も寺の名前の通り滝が流れていて、多くの虫の息の人が水を求めていました。寺の人は水(当時すべての水が放射能や死の灰で汚染されていた)を飲ませて良いものかも分からず途方に暮れている間にもその人達は次々に死んで行ったそうです。その人たちが死を目前に強く強く欲したものが「水」だったのです。

 世界の何処であっても、絶対にもう二度と原爆を使用してはいけません。日本の広島・長崎を人類最期の原爆被害にしなければなりません。




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 核兵器の拡散が懸念され、テロや紛争が世界を脅かす中、被爆地・ヒロシマは6日、61回目の原爆の日を迎えた。広島市中区の平和記念公園で催された平和記念式典(原爆死没者慰霊式・平和祈念式)には約4万5000人が参列。広島市の秋葉忠利市長は平和宣言で、「人類は今、すべての国が核兵器の奴隷となるか自由となるかの岐路に立たされている」と指摘。同市が中心となり、世界1403都市が加盟する「平和市長会議」から、都市を核攻撃の目標としないよう核保有国に求める運動を展開すると表明した。

 秋葉市長は平和宣言で「被爆者の声は心ある世界の市民に広がったが、世界政治のリーダーたちはその声を無視し続けている」と批判した。北朝鮮やイランへの核兵器の広がりや、米国による小型の「使える核兵器」の開発推進が懸念されている。イラクやレバノンでの戦闘で、多数の市民が犠牲になっている。


 日本も、在日米軍再編を受けた基地問題に揺れ、平和憲法を巡るせめぎ合いが続く。一方、被爆者に対する援護は今なお行き届かず、原爆症認定訴訟では大阪、広島の両地裁で被爆者側の勝訴判決が相次いだ。平和宣言は、政府に対し、平和憲法順守を前提に、核兵器廃絶に向けた世界的運動の展開や、高齢化した被爆者への援護策の充実を求めた。

 オランダ・ハーグの国際司法裁判所が「核兵器の使用は一般的に国際法違反」と勧告してから10年がたつ。平和宣言は核保有国だけでなく、多くの市民が真正面から勧告を受け止めていれば、核兵器は廃絶されていたはずだと指摘。「固い意志と情熱を持って私たちが目覚め起(た)つ時が来た」とも呼びかけた。

 式典は午前8時に開始。秋葉市長と遺族代表2人が、この1年間に死亡、または死亡が確認された被爆者5350人の名簿3冊に加え、今年新たに、名前さえ分からない多くの死没者を追悼するため「氏名不詳者 多数」と記した名簿1冊を原爆慰霊碑下の奉安箱に納めた。原爆死没者名簿は計89冊、死没者数は計24万7787人に上る。また、こども代表として日米両国籍を持つ小学6年のスミス・アンジェリアさん(12)らが「平和への誓い」を読み上げた。

 続いて小泉純一郎首相、伊藤一長・長崎市長らが献花。原爆投下時刻の午前8時15分、参列者は1分間の黙とうをささげた。式典には過去最多の35カ国の駐日大使らが参列した。
by uncle-mac | 2006-08-06 14:09 | 社会・事故・災害
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